第94回 国際理解講座<世界を知ろうシリーズ>を2019年12月14日、本多公民館で開催しました。
講演者は京都大学名誉教授の渡邉尚さん、『逃げ水の「ヨーロッパ」』と題して、ヨーロッパ形成の歴史的な経緯、ヨーロッパ統合をめぐるイギリスとフランスの対抗関係、イギリスのEU脱退問題の背景と影響などを明確でわかり易い内容でお話しいただきました。聴講者は、先生の講演を熱心に聞き入り、ヨーロッパについての知識と実態を学び、理解を深めたとたいへん好評でした。
以下に、渡邉さんのご講演の要旨を紹介します。
国際理解講座講演『逃げ水の「ヨーロッパ」』要旨 渡邉 尚
3年越しの「ブレグジト」騒ぎは、イギリスと大陸部ヨーロッパとのよそよそしい関係を、さんざんに見せつけてくれました。現行のEU条約には加盟国の脱退条項があるので、脱退の可能性は想定されていたはずです。しかし、いざ脱退の動きが現実となると、それもEU第二の経済大国とあってみれば、まるでEUが分解しかねないほどの騒ぎです。この騒ぎを観ていると、EUがどれほどヨーロッパを代表しえているのか、怪しくなってきます。それどころか、「ヨーロッパ」ということばで表されるものの実体は何なのか、いや、そもそも実体があるのか、という根本的疑問さえ湧いてきます。考えてみると、ヨーロッパの輪郭の不鮮明さを示す二つの事例に思いあたります。
一つは、EECからEUにいたるヨーロッパ統合拡大・深化につれて、基本条約がいくたびも改正されましたが、どの条約にもヨーロッパの定義が見あたらないことです。まるで、ヨーロッパは自明の観念であり、あらためて定義するまでもない、暗黙の相互了解で十分だと、言わんばかりです。
もう一つが、EU旗の意匠です。これは紺色の地に金色の星が12個、円環状に並んでいます。1986年、スペイン、ポルトガルの加盟で12カ国体制になったのを機に、1955年以来ヨーロッパ評議会(後出)の旗として使われてきたものが、EC旗としても採用されたのです。星の数がEC加盟国数に一致したことを好機ととらえたのでしょう。しかし、1995年以降、加盟国数が激増したにも拘らず、星の数は12のままです。いまや12という数は、星条旗のように加盟国数を表すのではなく、「完全」を表す象徴とされています。EU旗の星の数の意味転換は、今後とも加盟国数が増えるとの楽観的見通しを反映しているのかもしれません。しかし、EC/EUの版図拡大につれてヨーロッパの輪郭が薄れてゆくため、ヨーロッパのかたちは象徴としてしか表現できないと、告白したともとれそうです。
たしかに、「ヨーロッパ」のかたちは見れば見るほどぼやけてきて、まるで逃げ水のように掴みどころがありません。そこで今日は、「ヨーロッパ」ということばが、いつ、どこで生まれ、それはどのような意味で使われたのか、「ヨーロッパ」と呼ばれた地域に住む集団が、いつ、何をきっかけに「われらヨーロッパ人」と自称するようになったのか、そういう「ヨーロッパ(人)」を、非ヨーロッパ人である日本人はどのように観てきたのか、以上のような問題関心をもって私が考えるところをお話し、皆さんそれぞれの「ヨーロッパ」観を問いなおすための手がかりを提供できればと、願っております。
そこで、二次大戦後に生まれた「ヨーロッパ統合」を掲げる国際機構の比較検討から始めましょう。1948年から1960年までの間に五つのヨーロッパ統
合機構が生まれました。しかし、相互間のきびしい生存競争の結果、現在残っているのは事実上「ヨーロッパ評議会」(Council of Europe : CE、47カ国)と「ヨーロッパ連合」(European Union : EU、28カ国)だけです。CEは加盟国数からみればEUを圧倒し、トルコやロシアも加盟しているのでヨーロッパを覆いつくしているかに見えます。しかし、超国家機関も固有の財源も持たないCEの活動は、勧告や助言にとどまり、存在感の強いEUの陰に隠れがちです。また、加盟国に対する強制力を持たないため、近年すくなからぬ加盟国で蔓延する反民主主義的風潮に対して、無策ぶりをさらけ出しています。ちなみに、CE規約にもヨーロッパの定義がありません。他方でEUは、固有の財源による補助金政策に物を言わせて、次々に中・東ヨーロッパ諸国を組みいれてきました。しかし、なぜかトルコの加盟だけはかたくなに拒んでいます。逆に、西ヨーロッパのど真ん中に位置するスイスがいっかな加盟しようとせず、ここへ来てイギリスが割って出ようとしています。このようにCE,EUともそれぞれ問題をかかえながら、「ヨーロッパ」の代表権を競いあっているのが現状です。
この二つの機構の対抗関係は、昨今の「ブレグジト」騒ぎを理解するうえで参考になります。CEを主導してきたのはイギリス、EUを主導してきたのはフランスだからです。ヨーロッパ統合をめぐるイギリスとフランスの対抗関係が、戦後ヨーロッパ統合史を刻印してきたのです。この意味で、「ブレグジト」騒ぎはいまに始まったことではないと言って言いすぎでありません。実は、二次大戦後のヨーロッパ統合に向かって口火を切ったのは、かのウィンストン チャーチルです。1946年チューリヒでの歴史的演説で、かれは「一種のヨーロッパ合衆国」の形成を提唱しました。同時に、イギリスとブリティシュコモンウェルスはこれに加わらないと明言してもいます。イギリスは「ヨーロッパ」でないと言ったのも同然です。たしかに、イギリスの背後にはイギリスを盟主とする全世界規模のゆるやかな政治共同体、コモンウェルス(53カ国)が控えています。しかも、EU加盟国のうちキプロスとマルタは、コモンウェルスにも属しているのです。150年前の1869年にスエズ運河が開通し、ロンドンとボンベイ(ムンバイ)間の時間距離が劇的に短縮しました。1875年にスエズ運河会社の株をエジプトから買収したのを機に、イギリスは1877年インド帝国を創出し、同君連合としてビクトリア女王がインド皇帝を兼ねることになりました。ブリテン帝国(British Empire)の成立です。これが、1931年ウェストミンスター憲章によりブリティシュコモンウェルスに変わり、1949年新生インド共和国の新たな加盟とともに、ブリティシュがとれてコモンウェルスになったのです。
他方で、大陸部ヨーロッパにおいて成立した「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」(ECSC : 1952),「ヨーロッパ経済共同体」(EEC : 1958)は、ドイツ占領政策の延長であり、西ドイツをフランス主導の「ヨーロッパ」に封じこめることが狙いでした。その結果は、西ドイツの西ヨーロッパ市場支配でした。そこでフランスが新たに画策したのが、強すぎるドイツ・マルクを抑えこむための通貨統合です。東ドイツ併合を認める取引条件をもってマルクを廃貨にした結果はというと、ユーロのマルク化、統一ドイツ経済の不均等発展の加速です。こういうEUに留まりつづけるのが得策だろうか、EUから抜けてみて事態がどう変わるか見てみよう、イギリス人がそう考えたとしてもおかしくありません。
以上、戦後ヨーロッパ統合の経過を回顧して、「ヨーロッパ」観念が「ヨーロッパ人」自身にとりけっして自明でないことを確かめました。そこで次に、視線をはるか昔に向けることにいたします。「ヨーロッパ」という固有名詞の由来を尋ねることから始めましょう。「ヨーロッパ」という日本語は、オランダ語の「イェーローパ」から来ており、これはラテン語の「エウローパ」へ、さらにギリシャ語の「エウローペー」へ、さらにまたフェニキア語の「エレブ」へと遡ります。これは、アッシリア語の「西方」、「日が没する地」に由来すると言われています。エウローペーはギリシャ神話・伝説に現れる女性の名で、彼女はフェニキアの都市国家テュロスの国王アゲーノールの娘でした。あるとき海岸で侍女たちと戯れていた彼女を見初めたゼウスは、白い牡牛に化け、彼女の傍らに寄ってきて膝を折り、背に乗れと彼女を誘います。促されて彼女が背に乗ると、牛は急に立ちあがってそのまま海に入ってゆき、クレタ島に泳ぎつきました。そこで、ゼウスと交わったエウローペーはミノスなど三人の息子を産みます。このミノスが、青銅器時代エーゲ文明の一翼をなすミノス(クレタ)文明の始祖とされています。他方で、エウローペーの兄(弟)カドゥモスは父王に厳命されて失踪したエウローペーを探す旅に出ますが、ついに見つけることができず、デルフォイの神託にしたがいテーバイに赴き、この地に居ついてフェニキア文字を伝えます。これがギリシャ文字の起源、したがってギリシャ文明の起源とされているのです。
エウローペーにかかる最古の文献が、前8世紀ごろの人とされるホメーロスの『アポローンへの讃歌』です。ここではエウローペーが地名として挙げられています。前5世紀のヘロドトスは『歴史』で、「イストロス河(ドーナウ河)はヨーロッパ全土を貫流して最後に黒海にそそぐ。」と述べています。前4世紀になるとアリストテレスが『政治学』で、アシエー、ヘラス(ギリシャ)、エウローペーの比較をおこない、「寒冷地に住む諸民族、とくにヨーロッパ地方に住む諸民族は気概に富んでいるが、思考と技術は乏しいうらみがある。」と述べ、当時のギリシャ人が、文明の中心地ヘラスからみて北方の「蛮族」(バルバロス=ギリシャ語を解さない人々)が住む地をエウローペーと呼んでいたことが判ります。神話では人名であったのが、前8世紀ごろまでに地名に転化していたのです。
史書よりもエウローペーの位置を明確に示してくれるのが地図です。航海・植民民族であった古代ギリシャ人は、卓越した地図製作者でもありました。初めて世界地図を作成したのは、前7世紀に生まれたアナクシマンドロスと言われていますが、残っている最古の地図は、かれより一世紀後のヘカタイオスの地図のラテン語による復元です。ここではエーゲ海が中央に位置し、地中海、黒海、カスピ海より北がエウローパ、南がアシアとなっています。世界の中心地ヘラスはエーゲ―海に囲まれた半島であり、南北の大陸部は未開の地と認識されていたのです。ところが、アレクサンドロスによりマケドニア、トラキア、ヘラスが、すなわちバルカン半島全域が一つの帝国に併合されたため、ヘラスもエウローペーの一部とみなされるようになりました。前1世紀のストラボンの『地誌』では、「ヨーロッパ大陸は輪郭も複雑で、人間、国制とも最も優れた本来の徳を具える。」と記述され、アリストテレスの「ヨーロッパ」観と逆転しています。きわめつきは2世紀のプトレマイオスの『地理学』で、地球を球体とみて北を天にした円錐図法により世界地図を作成し、エウローパ、アシア、アフリカ三大陸観を確立しました。
それでは、エウローペー、エウローパと呼ばれた地に住む集団は自分たちを何と呼んでいたのでしょうか。ローマ文明、キリスト教文明の洗礼を受けてから、かれらは自らを「キリスト教世界」、「ローマ世界」と呼ぶようになりました。これに対してエウローパという地名は、神学的世界像を表すいわゆるT & O図のなかに埋もれて、修道院の奥深くひっそりと息づいていたのです。
歴史的状況に地殻変動が起きたのが、15世紀後半です。このときから、エウローパの住民集団は「キリスト教世界」を自称しつづけることが難しくなってゆきました。1453年に東ローマ帝国を滅亡させたオスマン帝国の興隆により、キリスト教世界の一半がイスラーム世界に組みこまれてしまったからです。西ローマ帝国を承継する地域が、「キリスト教世界」を自称しつづけることは、東ローマ帝国領域がオスマン帝国の版図に組みいれられたことを既成事実として受けいれることになりかねず、これは何としてでも避けたいところです。加えて、16世紀の宗教改革による西ローマ教会のカトリック教会とプロテスタント教会への分裂も、「キリスト教世界」という自称を難しくしてしまいました。
他方で、大航海時代に地球が球体であることが地球周航により確認され、南北アメリカ大陸の発見もあいまって、「キリスト教世界」はあらためて自らの地を世界の中心と位置づけなおす必要に迫られました。中心である以上、それは大陸でなければなりません。こうして、「ヨーロッパ大陸」を中心に据える世界地図作成の時代が到来したのです。15世紀後半、プトレマイオスの『地理学』が出版され、標準世界地図として重用される一方で、新しい世界地図が次々に製作され、なかでも16世紀のメルカートルの世界地図帳は大航海時代の必需品になりました。このような問題状況のなかで、古代ギリシャ文明が「発見」されたのです。古代ギリシャの地理学が「ヨーロッパ」と呼ぶ大陸は、まさにわれわれの住む大地ではないか、古代ギリシャが生んだ地名ならば、教会分裂で一体性を失った「キリスト教世界」の中立的呼称として使えるではないか、さらにまた、ヨーロッパ文明がその衣鉢を継ぐ古代ギリシャ文明の地をイスラーム世界から奪回するという、対イスラーム闘争を正当化する絶好の口実になるではないか、かくして多神教の最高神であるゼウスに召された娘の名が、一神教キリスト教世界の自称になる皮肉な現象が生まれたのです。「ヨーロッパ大陸」が地球の中心地として再発見され、「ヨーロッパ文明」と古代ギリシャ文明との連続性がヨーロッパ・イデオロギーになりました。「ヨーロッパ文明」の始祖として「古代ギリシャ文明」は、古代のなかでも別格の「古典古代」として創造されました。「近代ヨーロッパ」の誕生は、「古代ギリシャ」の誕生でもあったのです。
こうして誕生した「大陸ヨーロッパ」観念は、しかし深刻な矛盾をはらんでいました。大陸は固有の風土性を具える広大な陸地です。よって、ここに定住する集団の文化特性は風土による規定を免れません。定住範囲が大陸の輪郭と一致するかぎり、新生「ヨーロッパ」の空間的観念は明確でした。しかし、「ヨーロッパ人」が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸に植民地を建設して、そこに定住するようになると、新しい土地の風土に規定されて「ヨーロッパ人」としての文化特性が変質してゆくことは避けられません。他方で、他の大陸から異民族が「ヨーロッパ大陸」に流入して定住し、ここの風土に同化するにつれて、ヨーロッパ文化の新しい担い手になってゆくことは必至です。その典型がユダヤ教徒です。最近は、イスラームの流入がとめどもなく続いています。「イスラームのヨーロッパ」は十分にあり得るのです。「ヨーロッパ」観念における民族と風土の乖離は否みがたく、そのため、いずれかに徹しようとすると逃げ水のように捉えどころがなくなってしまうのです。
このような「ヨーロッパ」を近代日本人はどのように観てきたのでしょうか。福澤諭吉『文明論之概略』(1875)と和辻哲郎『風土』(1935)を例にとりあげてみましょう。福澤はヨーロッパとアメリカ合衆国を一体として観て、これを「西洋」、「白人文明」と呼んでいます。風土的把握でなく、民族(人種)性を重視しているのです。現代では「西洋」よりも「欧米(米欧)」が使われますが、福澤の観方は今なお生きています。他方で福澤は、文明の西洋と半開の日本との差は一歩にすぎず、ひとたび日本が文明化すれば西洋に並びたつことができると確信し、楽観的段階論の立場をとっています。
これに対して和辻は、ヨーロッパを「西欧」とみなし、「牧場型」風土に刻印された理性の文明と見ています。かれにとっては、ヨーロッパとは地名であり、しかも西ヨーロッパの意なのです。風土的規定が決定的要因である以上、「モンスーン型」風土の日本の文化は感性の文明とならざるをえず、理性の発展においてヨーロッパにおよばないという、諦念がにじむ類型論に立つのが和辻です。
福澤と和辻の「ヨーロッパ」理解は日本人の「ヨーロッパ」理解の典型であり、両極をなしています。ヨーロッパを「西洋(欧米)」と捉えるか、「西欧」と捉えるか、日本人もまた二つの逃げ水の間を行きつ戻りつしているのです。