【 第 3の 扉 】
741 年 、 聖武天皇 が、 日本各地 の「 国 」に「 国分寺 」を 建 てる 命令 を 出 しました。
奈良時代 には、 多 くの「 国 」に 病気 が 広 がって、たくさんの 人 が 亡 くなりました。 食 べ 物 が 育 たなくて、たくさんの 人 が 飢 えました。また、 大 きな 地震 や 地方 での争 いなども 起 こりました。
そのころの 天皇 だった 聖武天皇 は、 人々 が 平和 で 幸 せに 暮 らせるように、 仏教 の 力 で 日本 をまもってもらおうと 考 えました。そして、 741 年 、60 以上 ある 日本各地 の「 国 」にひとつずつ、「 国分寺 」というお 寺 を 建 てる 命令 を 出 しました。「 国分寺 」は、それぞれの「 国 」が 幸 せになるための 祈 りの 象徴 でした。
武蔵国 でも「 国分寺 」を 建 てることになりました。この 武蔵国分寺 の 建設 には、 外国 から 移住 してきた、 高 い 技術 を 持 つ 人 たちも 協力 しました。この 人 たちは、中国大陸 や 朝鮮半島 からやってきて、 武蔵国 に 住 むようになった 人 たちです。 武蔵国分寺 を 建 てる 計画 は、 広 い 武蔵国 にふさわしい、 大 きくて、りっぱなお 寺 をつくろうというものでした。
また、 聖武天皇 は、 奈良 の 都 に、 黄金色 に 輝 く、 大 きな 仏像 をつくる 命令 を 出 しました。そして、 東大寺 という 大 きなお 寺 を 建 てて、この 仏像 を 本尊 (*お 寺 の、 特 に 大事 な 仏像 )として 置 くことにしました。 東大寺 は「 総国分寺 」という、すべての「 国分寺 」の 最高 の 位 にあるお 寺 です。この 大 きな 仏像 は「 奈良 の 大仏 」と 呼 ばれて、いまもたくさんの 人 が 訪 れています。
【 第 4の 扉 】
武蔵国 の 中 で、 武蔵国分寺 を 建 てるのにもっともふさわしい 場 所 を 選 びました。
聖武天皇 は、それぞれの 国府 に対して「 国分寺 」を 建 てる 場所 についても 命令 を 出 しました。「 国分寺 」にふさわしい 場所 を 選 ぶための 条 件 を 出 したのです。
武蔵国 で 選 ばれた 場所 は、 武蔵国府 から3キロメートルほど 北 にある 崖線 の 前 に 広 がっ た 土 地 でした。この 崖線 は、いまは「 国分寺崖線 」と 呼 ばれているものです。
・ 東山道武蔵路 が 通 っている 場所
・ 武蔵国府 から 近 い 場所
・ 土 地 が 広 く、 遠 くまで 見 わたすことができる 場所
・ 大雨 による 災害 などが 起 こらない 場所
・ お 寺 での 暮 らしに 必要 な 水 がたくさん 出 る 場所
こういう 理由 で、 武蔵国分寺 を 建 てる 場所 として、いまの 国分寺市 西元町 が 選 ばれました。
崖線 は、 急 な 坂 のようになっている 崖 が、 途切 れることなくずっと 続 いている 地形 のことです。地図 の 緑 の 帯 が 国分寺崖線 です。
はるか 遠 いむかし、 多摩川 はいまの 国分寺崖線 の 近 くを 流 れていました。この 多摩川 は、 大地 をけずりながら、 長 い 長 い 時間 をかけて、いま 多摩川 が 流 れているところまで 移 っていきました。こうして、 国分寺崖線 と、この 南側 に 広 く 開 けた 土地 ができたのです。地元 では「ハケ」と 呼 んでいる 国分寺崖線 からは、いまも 豊 かな自然 の 水 がわき 出 ています。
武蔵国分寺跡 と 国分寺崖線 〈 緑 の 帯 )
( 武蔵国分寺跡資料館 提供 )
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