( だい )  9の ( とびら )

国分寺 ( こくぶんじ ) 」は、お ( てら )( むら )名前 ( なまえ ) として、 いまのわたしたちに ( ) けつがれてきました 。


 江戸時代 (  えどじだい ) (1603 ( ねん ) -1868 ( ねん ) )の1800 年代 ( ねんだい ) のはじめごろに 出版 ( しゅっぱん ) された ( ほん ) (*『 江戸 ( えど ) 名所 ( めいしょ ) 図会 ( ずえ ) 』)に、「 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 」のことが ( ) ています。この ( ほん ) によると、 江戸 ( えど ) 時代 ( じだい ) には、 奈良時代 ( ならじだい )( ) てられた「 武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) 」は、すでに 礎石 ( そせき ) (* 建物 ( たてもの )土台 ( どだい )( おお ) きな ( いし ) )と ( かわら )破片 ( はへん ) をだけをのこす、むかしあったお ( てら )( あと )武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 」になっていたことがわかります。そして、 当時 ( とうじ ) は、「 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 」の 礎石 ( そせき )( かわら )破片 ( はへん )人々 ( ひとびと )関心 ( かんしん )( あつ ) めて、たくさんの ( ひと )( おとず ) れる 名所 ( めいしょ ) になっていました。

 この 江戸時代 ( えどじだい ) には、「 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 」のすぐ ( ちか ) くに、 奈良時代 ( ならじだい ) のものとは ( べつ ) の「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」が ( ) てられたようです。そして、 記録 ( きろく ) によると、この「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 本堂 ( ほんどう ) が1730 ( ねん ) ごろに ( ) てられました。また、 薬師堂 ( やくしどう ) は、元々建っていたところから「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 本堂 ( ほんどう ) に近い 場所 ( ばしょ ) に移され、1750 ( ねん ) ごろにいまの 場所 ( ばしょ )( ) てかえられました。いまあるのは、この「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 本堂 ( ほんどう )薬師堂 ( やくしどう ) です。

 江戸時代 (  えどじだい )( ) た別の ( ほん ) (*『 新編 ( しんぺん ) 武蔵 ( むさし ) 風土記 ( ふどき ) 稿 ( こう ) 』)には、「 多摩郡 ( たまぐん )   府中領 ( ふちゅうりょう )   国分寺村 ( こくぶんじむら ) 」として、「 国分寺村 ( こくぶんじむら ) 」の 名前 ( なまえ ) があります。また、この本には、 国分寺市 ( こくぶんじし ) に「 恋ヶ窪 ( こいがくぼ ) 」の 地名 ( ちめい ) でのこっている「 恋ヶ窪村 ( こいがくぼむら ) 」の 名前 ( なまえ ) もあります。

 

 奈良時代 (  ならじだい )( ) てられた「 武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) 」に ( はじ ) まる「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 名前 ( なまえ ) は、こうして、いまのわたしたちに受けつがれてきたのです。

 明治時代 (  めいじじだい ) (1868 ( ねん ) -1912 ( ねん ) )になり、 ( あたら ) しくできた「 市町村 ( しちょうそん ) 」のしくみの ( なか ) で、 周辺 ( しゅうへん ) の10の ( むら )( あつ ) めて、 ( あたら ) しい「 国分寺村 ( こくぶんじむら ) 」が ( ) まれました。1889 ( ねん ) のことです。そのあと、 国分寺村 ( こくぶんじむら )( ) んでいる ( ひと ) もふえて、1940 ( ねん ) には「 国分寺町 ( こくぶんじまち ) 」になりました。そして、 国分寺町 ( こくぶんじまち ) はさらに 発展 ( はってん ) して、1964 ( ねん ) には「 国分寺市 ( こくぶんじし ) 」になりました。

国分寺市 ( こくぶんじし ) のような「 ( ) 」は、 現在 ( げんざい )日本 ( にほん ) には 全部 ( ぜんぶ ) で800くらいあります。しかし、「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」を ( )名前 ( なまえ ) として ( ) っているのは、 国分寺市 ( こくぶんじし ) だけです。

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武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) 」の 歴史 ( れきし )記憶 ( きおく )未来 ( みらい ) へ。


 “そもそも、 武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) はどんなお ( てら ) だったのでしょうか ?”、“お ( てら )建物 ( たてもの ) は、どこに、どのように ( ) っていたのでしょうか”――。こうしたことの 調査 ( ちょうさ )研究 ( けんきゅう )( はじ ) まったのは、1900 年代 ( ねんだい ) になってからのことです。

 1922 ( ねん )武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) があった 場所 ( ばしょ ) は、「 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 」として ( くに )史跡 ( しせき )指定 ( してい ) されました。

 1974 ( ねん ) からは、 国分寺市 ( こくぶんじし ) 教育委員会 ( きょういくいいんかい ) が、 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと )本格的 ( ほんかくてき )調査 ( ちょうさ )( はじ ) めました。この 調査 ( ちょうさ ) で、 武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ )土地 ( とち )( ひろ ) さや、どんな 建物 ( たてもの ) がどのように ( ) っていたかなどが、すこしずつわかってきました。


いまの 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )


 武蔵国分尼寺跡 (  むさしこくぶんにじあと ) は、 調査 ( ちょうさ ) そして 整備 ( せいび ) 工事 ( こうじ )( ) わって、2003 ( ねん ) から、 ( くに ) 指定 ( してい )史跡 ( しせき )市立 ( しりつ ) 歴史公園 ( れきしこうえん ) 武蔵国分尼寺跡 ( むさしこくぶんにじあと ) として 公開 ( こうかい ) されています。


いまの 武蔵国分尼寺跡 ( むさしこくぶんにじあと )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )

 一方 (  いっぽう )武蔵国分僧寺 ( むさしこくぶんそうじ ) では、 七重塔 ( しちじゅうのとう )金堂 ( こんどう )講堂 ( こうどう )鐘楼 ( しょうろう )経蔵 ( きょうぞう )僧坊 ( そうぼう ) の6つの 建物 ( たてもの )( ) っていた 場所 ( ばしょ ) が、 調査 ( ちょうさ )( あき ) らかになりました。いまは、これらの 建物 ( たてもの ) があった ( あと )整備 ( せいび )( すす ) められています。

 その ( なか ) で、2014 ( ねん ) には、 講堂 ( こうどう ) 土台 ( どだい )復元 ( ふくげん ) されました。また、 参道 ( さんどう ) (*お ( てら ) にお ( まい ) りするための 特別 ( とくべつ )( みち ) )や、お ( てら )( もん ) などの 整備 ( せいび )( すす ) んでいます。

 講堂 (  こうどう )土台 ( どだい ) は、 地面 ( じめん ) から ( すこ )( たか )( )( ) げてつくってありました。 土台 ( どだい )( まわ ) りは、 ( かわら ) をつみ ( ) げて、 ( かべ ) にしていたことがわかりました。 復元 ( ふくげん ) した 土台 ( どだい )一部 ( いちぶ ) には、 調査 ( ちょうさ )( )( ) した 本物 ( ほんもの )( かわら )( さい ) 利用 ( りよう ) しました。また、 国分寺 ( こくぶんじ ) 市民 ( しみん ) がつくった ( かわら ) なども 使 ( つか ) われています。


いまの 武蔵国分僧寺講堂跡 ( むさしこくぶんそうじこうどうあと )基壇 ( きだん ) と、 基壇 ( きだん )( )( ) げられた ( かわら )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )

 さらに、2019 ( ねん ) には、 金堂 ( こんどう )基壇 ( きだん )復元 ( ふくげん ) と、 金堂 ( こんどう )講堂 ( こうどう )( あいだ ) をつないでいた ( みち )( あと )復元 ( ふくげん )( ) わりました。

武蔵国分僧寺金堂 ( むさしこくぶんそうじこんどう )想像図 ( そうぞうず )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )


いまの 武蔵国分僧寺金堂跡 ( むさしこくぶんそうじこんどうあと )基壇 ( きだん ) と、 金堂 ( こんどう ) から 講堂 ( こうどう ) へと ( ) かう ( みち )( あと )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )

 武蔵国分寺 (  むさしこくぶんじ )歴史 ( れきし )記憶 ( きおく ) とともに、 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと )調査 ( ちょうさ )研究 ( けんきゅう ) することや、 整備 ( せいび ) して 未来 ( みらい ) へと ( つた ) えていくことは、これからも ( つづ ) きます。

 江戸時代 (  えどじだい )人々 ( ひとびと ) は、 国分寺村 ( こくぶんじむら ) の、 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) とされる ( はたけ ) などに ( ) ちている ( おお ) きな 礎石 ( そせき )( かわら )破片 ( はへん )( ) て、 奈良時代 ( ならじだい ) の 武蔵国分寺 ( むさしこくぶんじ ) の ( おお ) きな 建物 ( たてもの )想像 ( そうぞう ) しました。いま、わたしたちは、 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) で、これらの 礎石 ( そせき )( かわら ) をはじめ、いろいろな 貴重 ( きちょう )資料 ( しりょう )( ) ることができます。ここには、 七堂 ( しちどう ) 伽藍 ( がらん )( おお ) きな 模型 ( もけい )展示 ( てんじ ) されています。 整備 ( せいび ) された 金堂 ( こんどう )講堂 ( こうどう )七重塔 ( しちじゅうのとう )跡地 ( あとち )( ) くと、 ( おお ) きな 礎石 ( そせき )復元 ( ふくげん ) された 土台 ( どだい )( ) ることができます。

 こうした 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) を、ぜひ、 ( たず ) ねてみてください。そして、 奈良時代 ( ならじだい )人々 ( ひとびと )( ) ていた 武蔵 ( むさし ) 国分寺 ( こくぶんじ ) のようすを 想像 ( そうぞう ) してみてください。 ( とく ) に、 ( はる ) には、たくさんのきれいな ( さくら ) がみなさんを ( つつ ) んでくれます。