( だい ) 1の ( とびら )

国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 名前 ( なまえ ) は、「 武蔵国 ( むさしのくに ) 」の 古代 ( こだい ) のお ( てら )武蔵 ( むさし ) 国分寺 ( こくぶんじ ) 」に 由来 ( ゆらい ) しています。


 日本 (  にほん )歴史 ( れきし ) では、8 世紀 ( せいき ) ごろを 奈良 ( なら ) 時代 ( じだい )( ) います。

そのころの 日本 ( にほん ) には60 以上 ( いじょう ) の「 ( くに ) 」がありました。この「 ( くに ) 」は、いまの47の「 都道府県 ( とどうふけん ) 」にあたるものです。「 ( くに ) 」には、 行政 ( ぎょうせい )( おこな )役所 ( やくしょ )( ) かれていました。この 役所 ( やくしょ ) は、

国府 ( こくふ ) 」と ( ) ばれていました。

 そんな「 ( くに ) 」のひとつに、「 武蔵国 ( むさしのくに ) 」がありました。 武蔵国 ( むさしのくに ) は、「 ( くに ) 」の ( なか ) でも、とても ( おお ) きな「 ( くに ) 」でした。 武蔵国 ( むさしのくに )( ひろ ) さは、いまの 東京 ( とうきょう ) ( )埼玉 ( さいたま ) ( けん ) 、そして 神奈川 ( かながわ ) ( けん )一部 ( いちぶ )横浜 ( よこはま ) ( )川崎 ( かわさき ) ( ) など)にまでおよんでいました。

 「『 武蔵国 ( むさしのくに ) 』の 地図 ( ちず )( あか ) い「」の ( しるし ) のところに、「 武蔵 ( むさし ) 国分寺 ( こくぶんじ ) 」と ( ) いてあります。ここが、いまの 国分寺市 ( こくぶんじし ) にあたる 場所 ( ばしょ ) です。 国分寺市 ( こくぶんじし ) の「 国分寺 ( こくぶんじ ) 」の 名前 ( なまえ ) は、この 場所 ( ばしょ )武蔵 ( むさし ) 国分寺 ( こくぶんじ ) があったことに 由来 ( ゆらい ) しています。


武蔵国 ( むさしのくに ) 」の 地図 ( ちず )  ( 武蔵国分寺跡 ( むさしこくぶんじあと ) 資料館 ( しりょうかん )  提供 ( ていきょう )

 東京都 (  とうきょうと )埼玉県 ( さいたまけん )神奈川県 ( かながわけん ) には、「 武蔵 ( むさし ) 」から ( はじ ) まる 地名 ( ちめい ) がたくさんあります。 鉄道 ( てつどう )駅名 ( えきめい ) にも、たとえば JR ( じぇいあーる ) 中央線 ( ちゅうおうせん )武蔵小金井駅 ( むさしこがねいえき )武蔵境駅 ( むさしさかいえき ) などのように、「 武蔵 ( むさし ) 」から ( はじ ) まる ( えき ) は20ぐらいもあります。

( だい )  2の ( とびら )

武蔵国 ( むさしのくに ) には、「 東山道 ( とうさんどう ) 武蔵 ( むさし ) ( みち ) 」という ( おお ) きな 道路 ( どうろ ) がありました。



 武蔵国 ( むさしのくに )国府 ( こくふ ) は、いまの 府中市 ( ふちゅうし ) にありました。 府中市 ( ふちゅうし )名前 ( なまえ ) は、ここに 国府 ( こくふ ) があったことに 由来 ( ゆらい ) しています。 国府 ( こくふ )場所 ( ばしょ ) は、いまの 府中市 ( ふちゅうし ) にある 大國魂神社 ( おおくにたまじんじゃ ) のそばにありました。 大國魂神社 ( おおくにたまじんじゃ ) は、はるか ( おお ) むかしからの 歴史 ( れきし )( ) っている 神社 ( じんじゃ ) です。

 奈良時代 (  ならじだい ) は、 奈良 ( なら ) (*いまの 奈良県奈良市) ( ならけんならし )( みやこ ) (*いまの「 首都 ( しゅと ) 」の ( ) いかた)としていた 時代 ( じだい ) です。 奈良 ( なら )( みやこ )日本各地 ( にほんかくち )国府 ( こくふ ) は、いまの 高速道路 ( こうそくどうろ ) のような、りっぱな 幹線道路 ( かんせんどうろ ) でつながっていました。 幹線道路 ( かんせんどうろ )全部 ( ぜんぶ ) で7 ( ほん ) 。このうちの1 ( ぽん ) に、 奈良 ( なら ) から 東北地方 ( とうほくちほう )( ) かう「 東山道 ( とうさんどう ) 」という 幹線道路 ( かんせんどうろ ) がありました。この 東山道 ( とうさんどう ) から 武蔵国府 ( むさしこくふ ) へと ( ) かれた ( みち ) が、「 東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち ) 」でした。


東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち )  ( 武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )

 奈良 (  なら )( みやこ )出発 ( しゅっぱつ ) した 人々 ( ひとびと ) は、 東山道 ( とうさんどう )使 ( つか ) って、いくつもの ( やま ) をこえて 上野国 ( こうずけのくに ) (*いまの 群馬県 ( ぐんまけん ) )まできます。そこで 東山道 ( とうさんどう ) から 東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち ) (* 地図 ( ちず ) ( あか ) ( せん ) )に ( はい ) り、 武蔵国府 ( むさしこくふ ) へと ( ) かいます。 人々 ( ひとびと )奈良 ( なら )( みやこ ) から 武蔵国府 ( むさしこくふ ) まで ( ) るのに、 1 ( いっ )( げつ ) 以上 ( いじょう ) もかかりました。

 広 (   ひろ )武蔵国 ( むさしのくに )( なか ) で、 東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち ) がどこをどう ( とお ) っていたのかは、まったくわかっていませんでした。しかし、 国分寺市内 ( こくぶんじしない )( おこ ) なった 発掘調査 ( はっくつちょうさ ) で、 東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち )( とお ) っていた 場所 ( ばしょ )発見 ( はっけん ) することができました。 ( みち )( はば ) は12メートルもある ( ひろ )道路 ( どうろ ) で、 ( ) っすぐ 南北 ( なんぼく )( ) びていたことがわかりました。 国分寺市内 ( こくぶんじしない ) でこうした 東山道武蔵路 ( とうさんどうむさしみち ) のようすがわかったのは、とても 画期 ( かっき ) ( てき ) なことです。 古代 ( こだい )幹線道路 ( かんせんどうろ ) が、これほどの 規模 ( きぼ )確認 ( かくにん ) できたことはなかったからです。

 これが、いま 国分寺市泉町 ( こくぶんじしいずみちょう ) にある「 東山道武蔵路跡 ( とうさんどうむさしみちあと ) 」です。 ( やく ) 340メートルの ( なが ) さの 道路跡 ( どうろあと )整備 ( せいび )保存 ( ほぞん ) されています。この 東山道武蔵路跡 ( とうさんどうむさしみちあと ) は、 大事 ( だいじ ) にのこしていく 貴重 ( きちょう )歴史 ( れきし )財産 ( ざいさん ) として、 日本国 ( にほんこく )史跡 ( しせき )指定 ( してい ) されています。



東山道武蔵路跡 とうさんどうむさしみちあと国指定史跡 くにしていしせき

泉町 ( いずみちょう )発掘 ( はっくつ ) されたようすと、 整備 ( せいび )( ) わったようす

武蔵国分寺跡資料館 ( むさしこくぶんじあとしりょうかん ) 提供 ( ていきょう )